JLPT N1MODE BACA
JLPT N1 - 2019年7月
Kunci jawaban resmi dan pembahasan lengkap ditampilkan langsung untuk eksplorasi materi.
SESI 18 SOAL
内容理解(中文) (Pemahaman Teks Sedang)
次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
WACANA / STIMULUS SOAL
ここ数年はクマがヒトの領分(注1)に入りこんでトラブルになることが多くなった。
人里(注2)にクマが出没する原因を餌不足に求める報道が多かったように思うが、ブナ(注3)に代表される奥山の種子生産の豊凶(注4)は昔からあるできごとで、奥山での食物不足を毎年のクマ出没の主因に当てはめるのには無理があるように思う。奥山でのクマ同士の力関係で、弱いクマが餌を求めて人里に出てきているという見方もあったが、人里で捕らえられたクマの栄養状態を調べると、かならずしも力の弱いクマが人里に降りてきているとは言えないようだ。奥山に十分な餌があっても人里に降りてきたり、人里の作物の収穫時期に合わせて山から下りてくる話を聞いていると、奥山よりも効率よく餌を得られる人里へ、力の強いクマが降りている様子が想像できる。奥山の動物たちの動きに変化が見られるようだ。それはクマだけでなくカモシカやシカを含めた野生動物全般に広がる変化である。
(中略)
クマをはじめとする野生動物が、人里に「おいしい」食べ物があることを知るのは、山里においしい食べ物をゴミとして捨てたヒトがいるからである。キャンプやバーベキューの後に放置されたゴミや、里山や人里近い山林に捨てられたゴミは、しばしば野生動物の食物になる。そして彼らは学習する。ヒトの捨てたゴミは「おいしい」と。学習した野生動物たちは、人里近くでゴミによって餌付けされ(注5)、人里内部へ入りこんでくるのである。野生動物が人里に出没するのは、人間が彼らを誘導している側面がある。
(注1)領分:領域
(注2)人里:ここでは、山に近い村
(注3)ブナ:森の木の一種
(注4)豊凶:豊作と凶作
(注5)餌付けする:ここでは、人になれさせる
1
無理があるように思うのはなぜか。
1.
クマの餌になる種子は一種類だけではないから
2.
クマの餌になる種子の種類が変化しているから
3.
クマの餌になる種子の凶作はこれまでもあったから
KUNCI4.
クマの餌になる種子の凶作は昔のほうが深刻だったから
2
筆者によると、クマが山から降りてくるのはなぜか。
1.
人里にも奥山と同じような餌があるから
2.
人里のほうが好みの餌が容易に得られるから
KUNCI3.
人里でしか餌を得られなくなったから
4.
人里ではクマ同士の力関係にかかわらず餌を得られるから
3
筆者の考えに合うのはどれか。
1.
野生動物の力関係は、栄養状態によって決まる。
2.
野生動物の行動の変化は、人間の行為に原因がある。
KUNCI3.
野生動物の生態が変化したのは、人間が生活環境を脅かしたためだ。
4.
野生動物と人間が共存していくには、ゴミの増加を抑える必要がある。
WACANA / STIMULUS SOAL
以下は、歴史を研究する人に向けて書かれた文章である。
私たちが生きている現在でも、ちょっと過ぎれば時間的には過去となる。では、少し前の自分の経験がどういう状態であったのだろうか、という場面を、記憶や資料をもとに正確に再現することはできるであろうか。全体について漏れなくすることは、どうあがいても(注1)できない。(中略)過去を生きた人たちの喜びや楽しみにしても、苦労や苦しみにしても、正確にはわれわれはそのごく一面しか推察できないのだ、という限界についての謙虚な自戒が、歴史を問うにはまず必要だと私は考えている。
そのうえで、現在を生きている人間が、ある問題について関心をもって問いかけるとき、はじめて歴史像を描く道への出発点ができる。そうやって問いかけがあってはじめて、なにを史資料として利用できるであろうか、というつぎのステップの問いへと続いてゆく。あるいは過去からの遺物に接して興味をそそられ、そこから歴史への扉が開かれる、という場合もあるかもしれない。いずれにしても、そうした問いがあって、ある文字表象(注2)や物体が史料ないし資料としての価値を帯びるのである。
そうした手続きを踏むことによって、われわれは、歴史像の構築へと歩みだす。描かれる歴史像は、過去の実態そのものではない。タイムマシーンは残念ながらないのであるから、そこには、歴史を問う者によって再構築された過去の一面についての像があるのみである。そこにあるのは、現在を生きる者によってなされた解釈の結果としての歴史像である。したがって、歴史像の再解釈ということは、つねにありうることといわなければならない。
(注1)どうあがいても:ここでは、どんなに頑張っても
(注2)文字表象:文字で書いてあるもの
4
筆者によると、歴史を研究する人はまずどうすべきか。
1.
過去は一部しか把握できないと自覚しなければならない。
KUNCI2.
過去の一面ではなく、全体を再現しようとしなければならない。
3.
過去を生きた人たちの気持ちは理解できないと自覚しなければならない。
4.
記憶や資料をもとに、過去を正確に再現しようとしなければならない。
5
そうした手続きを踏むとはどうすることか。
1.
文字表象や物体の分析をして、問題を解決する。
2.
価値のある史資料に多く接して、新たな問題を見つける。
3.
人々が関心をもつ問題を理解し、それに応じた史資料を探す。
4.
興味を抱いた問題について問いかけ、文字表象や物体を見る。
KUNCI6
歴史像について、筆者の考えに合うのはどれか。
1.
再構築を繰り返すことで明らかになる。
2.
現在を生きる者による解釈が実態に最も近い。
3.
様々な解釈によって実態に近づくことができる。
4.
異なる解釈によって再構築される可能性がある。
KUNCIWACANA / STIMULUS SOAL
近代的な社会革命は、ひとがたまたまどのような社会の場所に生まれ落ちたかという偶然によってそのひとの人生のほとんどが決まってしまうような生き方というものを否定し、家柄とか階層とか性とか民族とかの出自によって差別されない社会を構築することをめざしてきた。言ってみれば、出自をめぐる偶然的条件を度外視して、みなが社会の同じスタートラインにつく、そして学校という場所で、生きるのに最低限必要な基礎的な知識と技能とを学ぶ、そのうえで、その後この社会において個人として何をなしとげるかでそのひとの価値と人生のかたちが決まってくるという、そういう社会をめざした。理念として言えば、出自の偶然な条件に左右されることなく、ひとは何にでもなれる、そういう自由な世界をめざしたのである。そういうなかで、子どもの愛護、婦人の政治参加、もろもろの(注)差別の撤廃などの政策に取り組んできた。
けれども、何にでもなれるということは、あらかじめ何も決まっていないということ、決定的なものはないということである。裏を返して言えば、何にでもなれるというのは、自分がしたいことが見えないかぎり、何にもなれないということでもある。そのような意味で、自分がここにいることに理由が必要になった時代、自分が存在することの意味を自分で見いださなければならない時代にわたしたちは生きている。ひとびとが自分が「やりたい」ことをみずからに問わざるをえないのも、そうした時代のなかにあるからである。
(注)もろもろの:いろいろな
7
近代的な社会革命はどのような社会をめざしたか。
1.
個人の出自の違いが存在しない社会
2.
受けた教育によって人生が決まる社会
3.
誰でも平等な生活が送れる社会
4.
誰にでも可能性が平等に与えられる社会
KUNCI8
自分が「やりたい」ことをみずからに問わざるをえないのは、なぜか。
1.
ひとに決められたことの中には自分の「やりたい」ことがないから
2.
自分が「やりたい」ことでなければ、実現しても意味がないから
3.
自分の存在価値は自分で明らかにしなければならないから
KUNCI4.
自分の存在価値は自分ができることの中から探すしかないから