JLPT N1MODE BACA
JLPT N1 - 2017年12月
Kunci jawaban resmi dan pembahasan lengkap ditampilkan langsung untuk eksplorasi materi.
SESI 19 SOAL
内容理解(中文) (Pemahaman Teks Sedang)
次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
WACANA / STIMULUS SOAL
日本には昔から「物見遊山」(注1)という言葉がありますが、非日常への憧れは観光の一つの本質です。
しかしその一方で、物見遊山だけに頼った観光地はいずれ必ず飽きられてしまうというのも事実です。例えば富士山を見た外国人が、もう一度富士山だけを見るために訪日してくれるでしょうか?よほど個人的な思い入れでもない限り、そういうケースは稀でしょう。海外からわざわざやって来た旅行者に日本という場所へのリピーター(注2)となってもらうためには、彼らがまた戻って来たくなる別の工夫が必要です。
どの様なビジネスであったとしても、顧客(=ファン)の存在は決定的な意味を持ちます。そのブランドの価値を認めて、長期にわたって買い支えてくれる人の存在無しには安定的な収益は望めません。このことは観光地においても事情は同じです。(中略)
ここで再び、本質的な問いかけが浮かんできます。顧客とリピーターを生みだし、観光・リゾート地として何度も選ばれ続けるためには、一体何が必要なのでしょうか?
本当の意味で旅行者を惹きつけ、その土地のファンとなるのは、名所旧跡のような観光資源だけではありません。重要なのは自分たちとは異なる豊かな「日常性(ライフスタイル)」です。その土地の人たちが生き生きと暮らしていれば、訪れた人はきっとその理由を見つけたくなる。風土に根差した生活様式、独自の食文化、季節ごとの行事、その地の環境が育んだ産業。二回、三回と足を運べば、その度にまた違った表情が見えてくる。その深さを知れば、決して飽きることはありません。
(注1)物見(ものみ)遊山(ゆさん):見物して遊びまわること
(注2)リピーター:ここでは、繰り返し訪れる人
1
富士山の例を挙げて、筆者が述べようとしていることは何か。
1.
旅行者の観光の目的が変化してきた。
2.
旅行者が個人的な思い入れのある観光地にしか行かなくなった。
3.
ただ見物するだけの観光地は飽きられやすい。
KUNCI4.
観光地は非日常への憧れを満たす場ではなくなった。
2
このことは観光地においても事情は同じとあるが、どういうことか。
1.
繰り返し訪れる旅行者の存在が観光地の経営を支える。
KUNCI2.
観光地の価値を認めて広めてくれる人が必要だ。
3.
観光地が新しい旅行者を獲得し続けなければならない。
4.
安定的な収益を得て観光地の価値を高めることが必要だ。
3
観光地として何度も足を運んでもらうには、何が重要か。
1.
次々と新しい観光資源を生み出し続けること
2.
観光資源としての名所旧跡を大切に保存すること
3.
風土特有の文化や産業の中で人々が暮らしていること
KUNCI4.
その土地の人たちが生き生きと暮らせる理由を説明すること
WACANA / STIMULUS SOAL
芸術作品が私たちにもたらすものは、感動ばかりではない。驚きとか困惑、ときに不快感やイライラ感だったりする。それまでだれも思いつかなかったような形状や色彩や音は、私たちをさまざまに揺さぶる。
私たちは慣れ親しんだ世界に浸っているとき心地よさに包まれているが、そこから新しいものは生まれない。そういう意味で穏やかで心地よい文化は、保守的で現状肯定的であり、創造性やエネルギーにとぼしい。だからこそ、あえて不安とか狂気、驚きといった刺をもたらしてくれる①天邪鬼(注1)としての芸術が社会には必要なのである。
そういう意味で芸術は安定した穏やかなものを否定するところで生まれる。そうした芸術が誕生すると、社会は大きな包摂性(注2)をもっているから、トゲトゲしたものもくるんでのみ込んでしまう。すると、また異質な刺激因子としての芸術が必要になってくる。②その繰り返しによって、社会と文化のエネルギーが維持されるのではないか。(中略)
そうした芸術の天邪鬼性は、活力よりも穏やかさが優勢になりがちな成熟社会においてはより重要である。しかも、いまは昔とちがって世の中の変化のサイクルがどんどん短くなっており、これは芸術を生み出す側に大きな変化が求められていることを意味している。なぜなら時代の変化に合わそうとすると、必然的に次々と作品を世に出さなければならず、個々の作品の質を高めることがむずかしくなる。質を高めて完成域に近づいたときには、もう時代は次のサイクルに入っていて、次の作品に取りかからなくてはならない。
(注1)天邪鬼(あまのじゃく):ここでは、逆らったり否定したりするようなもの
(注2)包摂(ほうせつ)性:中に包み込む性質
4
筆者によると、①天邪鬼としての芸術が社会に必要なのはなぜか。
1.
社会が不安や刺激を当然のものとして受け入れられるようになるから
2.
社会にこれまでにないような創造性やエネルギーをもたらすから
KUNCI3.
社会の穏やかさや心地よさを人々に再認識させるから
4.
社会の不安や狂気や驚きから人々を解放するから
5
②その繰り返しとあるが、何を繰り返すのか。
1.
ある芸術が社会に取り込まれ、また異質性を持った別の芸術が求められること
KUNCI2.
ひとつの芸術が社会に完全に排除されると、次の新たな芸術が誕生すること
3.
新しい芸術が、社会に刺激を与えたり与えなかったりすること
4.
芸術に、同質性が求められたり異質性が求められたりすること
6
筆者によると、いまの芸術家はどのような状況に置かれているか。
1.
時代の変化を感じさせる作品を世に出さなければならない。
2.
穏やかさをもたらす作品を世に出さなければならない。
3.
常に作品の質を追求していかなければならない。
4.
作品を世に出し続けていかなければならない。
KUNCIWACANA / STIMULUS SOAL
いま私たちの多くは、社会など動かしようがないと考えているのではないでしょうか。そして、それを所与(注1)の条件として、どのように行動すればいいかの判断基準を決めているのです。言い換えれば私たちは、「この社会は動かしようがないのだから、それを現実として受け入れるしかない」と思い込み、その範囲内で実行可能な行為しか考慮しなくなってしまうのです。ここに①大きな誤りがあります。
たしかにこの社会は動かし難い。それは事実です。しかし、そのことと、この社会がいかにあるべきかは、まったく別のことです。にもかかわらず、目の前の現実に依拠(注2)して、私たちの行為の正しさやよさが決められてしまう。これでは、現実に不正義が行われていても、それを問うことはできません。なぜなら、そのような現実を前提にして、正しい行為とは何かのルール設定がなされているからです。目の前の現実が正義にかなっていない場合、そこでの行為の正しさやよさを問うことはできないと私は考えていますが、ともすると(注3)私たちは、その現実の範囲内での「適切な」行為を「正しい」行為であると考えてしまいがちです。たしかに、②その現実が動かしがたく、そのなかで生きていかねばならないとすれば、そこにおいて最も適切な行為とは何かを探究することには意味がありますし、その探究によって最も適切とされる行為を選択すべきでしょう。
しかしながら、その現実のほうに問題があるとすれば、そこで最も適切とされた行為は「適切」であるにしても、「正しい」行為ではないはずです。
(注1)所与の:与えられた
(注2)~に依拠(いきょ)する:~に基づく
(注3)ともすると:ここでは、つい
7
①大きな誤りとは何か。
1.
あるべき社会の姿と現実とを区別できず、的確な判断ができないこと
2.
現実社会における行動の判断基準があるにもかかわらず、従わないこと
3.
現実は動かしようがないとあきらめて、自ら動こうとしないこと
4.
現実を変えられないものとして受け入れ、そのなかでしか行動を考えないこと
KUNCI8
②その現実とあるが、どのようなものか。
1.
不正義が行われている現実
KUNCI2.
何が不正義か決められない現実
3.
社会が正義を求めている現実
4.
あるべき社会を求めている現実
9
行為の適切さと正しさについて、筆者はどのように考えているか。
1.
現実においては、正しい行為より最も適切とされる行為を選択すべきだ。
2.
現実で適切とされる行為が、いつも正しい行為であるとは言えない。
KUNCI3.
行為の正しさを追求しすぎて、現実における適切さを忘れてはいけない。
4.
最も適切な行為を探究しても、正しい行為は見つけ出せない。